院長松本はこんな人

松本斉

血液型 A型

現在東京都江東区門前仲町在住

1960年8月5日東京都江戸川区小岩で松本清・サトの次男として生まれる

 

私の開業物語

にも開業に至る経緯が説明されています。是非ご覧ください

【幼少期~小学生】

鹿骨保育園でやんちゃな毎日を元気に送るが、最初は母親と離れられず大泣きしていたようです。

なんとなくうっすらと覚えています。

小学生の頃はとにかく落ち着きがなく興味を持つと全部実行しないと気が済まない子供でした。

*例えば自転車走行中ふと前輪に目が行き「前輪のスポークに足挟まれたらどうなるかな?」と想像した途端に実行して転倒。

あまりの痛さに泣きながら帰宅した

*ドブ川に架かる幅10センチほどの桟の様なものを「自転車で渡れるかな?」と思い付き実行し案の定転落。

*冬に薄い氷が張ったどぶ川で「乗ったら割れるだろうな」と思ったら乗って、やはり転落。

*そのころ忍者アニメ「サスケ」が好きで父の所有するナイフを手裏剣の様に「柱に向かって投げて失敗したらはねかえってきてあぶないかな」と想像して実行して跳ね返ったナイフが足の指の間に刺さり大出血。と危険行動には枚挙にいとまがない子供だった。

鹿骨小学校5年生のころ学区外に転居したためその後集団下校時は一人寂しく帰路につく。

このため幼いころからの友達とも少しずつ疎遠になって行った。

【人生に多大な影響を与えた卓球】

【中学時代】

5年生の時小岩の「江戸川卓球センター(後の香月クラブ)」に入会して本格的に卓球を始める。

鹿本中学入学後も主に江戸川卓球センターなどで他校の生徒と練習していた。

(鹿本中には指導者がおらず卓球部員は皆卓球を始めたばかりだった)

中学3年生の時江戸川区で初優勝

それまで江戸川区には「松谷君」という絶対的な強者が居て、私は万年2位、3位だったが3年の最後の試合で初めて勝った。

泣きそうになるほどうれしかったのは今もはっきりと覚えている。

【高校時代】

<2年関東大会ダブルス>

中学の都大会の時実践商業高校にお誘いいただき進学を決意。

(当時東京随一の名門校で日本一練習が厳しいと言われていて実はビビっていた)

高校2年生の時関東大会にダブルスで代表となる。

2年の全日本ジュニアに代表となりベスト8決定戦でフルセット5-10と大幅リードから大逆転負けを喫し、これは今でも思い出して悔いている。

(正直勝ったなと思ったが相手の思い切った作戦変更に困惑した)

<3年関東大会団体戦準決勝>

3年の関東大会準決勝で神奈川の相模工大付属に3-2の大接戦で敗れた。

2-2ラストでダブルス勝負となりフルセットのカウント10-10から痛恨のレシーブミスで流れを渡してしまった(この時の悔しさは今も度々思い出す)

この相手の相模工大付属高校のエース山崎君と最近一緒にお酒を飲む機会がありこの時の話をすると「それは勝負のアヤだから仕方ないよ」と慰められる

<3年インターハイ団体戦>

3年のインターハイでは振るわず良い結果は残せなかったのが心残りの高校生活となった。

また高校時代のある時期から監督に反発しては殴られ…を繰り返し「監督に殴られた数」歴代ワースト5位以内に入るというありがたくない記録樹立。

【会社員時代】

<学研卓球部>

家庭の事情で大学進学は断念し就職希望。

元卓球世界チャンピオン、アジア選手権6回優勝の長谷川信彦氏に紹介していただき(株)学習研究社(GAKKEN)に入社。

知育ホビー事業部の物流事務部門に配属され主に在庫管理や配送手配に携わる。

23歳まで学研卓球部で活動していたがこの頃はお酒を覚え積極的な練習をせずあまりぱっとしない戦績だった。

<香月クラブ>

また、小学校の時お世話になっていた「香月クラブ(旧江戸川卓球センター)」にも所属し時々試合に出ていた。

23歳の時名古屋に転勤し営業マンとなり営業マン生活スタート。

名古屋ではコンサルティングセールスを得意とし、数々の実績を残した。

卓球はなかなか練習相手を見つけられず断念した。

30歳で大阪に転勤

営業実績はかなり良かったものの理不尽な要求を一切受け付けない頑固さから摩擦も少なくなかった。

33歳の時、所属事業部の分社独立を機に大阪営業所長となる。

この頃同規模の同業他社の大阪営業所のほぼ倍の売上実績を記録。

33歳の7月同僚だった女性と結婚。

38歳の時転勤で本社勤務となり大手量販店、百貨店を一人で担当するという暴挙に遭遇するも何とか持ちこたえる。

(各社専従が常識で場合によっては複数担当者がいる同業他社もあった。それを全部一人で担当しろって言うんだから当時の上司たちは常識が無いというか、市場が分かってないというか…)

担当会社は高島屋、大丸、京王、伊勢丹、小田急、西武、東急、丸正、イトーヨーカドー、ジャスコ、西友、マイカル、ダイエーなど当時の最大手の百貨店、量販店の本支店とデリバリーを担当する問屋を全部担当。

他のメーカーはそれぞれに専従者を配置するような相手ばかりを全部担当するなど常識では考えられない仕事量で、気が狂いそうになりながらも何とか持ちこたえていた。

 

全社的な販売不振により大量の在庫を抱えて会社の危機感が高まった時、量販店の店舗数の多さを利用して、あるシリーズの在庫を一掃する企画を成功させ危機を脱したことが2回。

常識ではこんなことはあり得ないが量販店のバイヤーと懇意にして頂いた人間関係が効いた!

かなりの実績を出していたもののここでも元来の頑固さから上司たちとの意見の衝突が増え闘いの日々となる。

その例の一つが印刷ミスの見つかった不良品を「ちょっと見では分からないから販売継続」を決定した上層部に反発し「おかしなことだ」と批判を公言しているうちに降格処分を受ける。

公言するのもどうかとは思うけど…

それでも間違っていないからと態度を変えないため上層部すべてを敵に回す状況となった。

あの時はきつかったなあ…

社長に向かって「社長も会社も卑怯だ」と言ってのけたんだから転職は必然だったのだろう

正しいことが受け入れられないなら自分がいる必要はないと思うようになり転職を考えるようになる。

その頃から社会や他者への貢献を強く意識するようになり、整体を模索。

当時妻が買ってきた「仕事の学校」という転職のための技術を身に付ける学校を特集した雑誌を読んでいるうちに徐々に転職への気分が高まってくる。

大川カイロプラクティック専門学院に入学し、仕事の後通学して勉強を続けた。

転職を決心し辞表を提出するも慰留され一旦保留はしたものの、この時にはすでに次への意志が強く固まっており半年後再度辞表を提出し退職が決定。

【治療家への道~現在】

他人の役に立ちたい、社会貢献したいという想いを胸に勉強と修行を続け、専門学校の直営院でアルバイトをしながら技術の研鑽に励む。

専門学校在学中の2004年2月19日に壮快カイロプラクティックを開業し現在に至る。

途中2011年8月脳梗塞で一時左半身麻痺を経験。

入院中医師や看護師はもちろんの事、家族や多くの友人や同業者、お客様に応援して頂き深く感謝し、いずれ恩返しをしようと決意。

後遺症により上手くできなくなった技術を改変し、体の使い方を工夫し、更に追加で勉強した結果、より効果的な施術体系を得る。

2016年7月末に離婚

14年前から続けているレンタル農園で野菜作りに励み収穫した野菜を消費するために料理を練習し、随分できるようになった。

消費しきれない分はお客様たちに配って手伝って頂いている。